八高線を走っている頃はロングシートということで毛嫌いしていたけど、
東北の701系が気に入ってからロングシートを忌避する気持ちもなくなり
今となっては勿体無い事をしたなぁ・・・と思う次第。
東海のキハ25-1000+キハ25-1100は、キハ35+キハ36が現代風になって帰って来たみたい。
キハ35で外吊りを採用してキハ38で普通のドアになったのはコンピュータによる構造解析が可能になったためか?
台枠強度が落ちるとかで泣く泣く外吊りにしたが
>>7
キハ38はキハ35より床が高いので台枠がごついかも。 >>4,5
車両的に国鉄を一番踏襲している東海ならば、あれはキハ35を名乗って欲しかった。 おやおや、今回投入のキハ25は置換えとなるキハ40キハ11と比べるとサービスダウン必至。
ローカル線でオールロングシートとはビの字を楽しみにくくなるのでいかがなものかと苦言を呈す。
35系は急行かすがのケツにぶら下がっていたこともあったよな。
さすがに35の編成の部分は締切=回送扱いだったがな。
>>13
はばかりの出入りに気まずいでしょうが。
最近の東クルマは、車椅子スペースを扉の真ん前にしてるんだよな。
あれもなんだかなーと思う。 トイレのドアが開くと一斉に?凄い異臭があふれ出てきた記憶。。。
キハ35って「便所知ラセ灯」ってついてたっけ?
今、便所が残ってる純キハ35は足尾の70番、一両だけだね。
便所付きの車両には全てあるっしょ
キハ35のは丸いライトだったな
加古川線ではキハ35系と湘南マスクのキハユニ15が連結されたりしてたな
八高線も、同じだった。20、40、45なんて同じ乗車区間でも違う場所に感じた。
非電化時代の和歌山線を走っていたキハ35系がオレンジ色とクリームの塗装だったころ、
和歌山線に並行して走る和歌山バスの路線バスもオレンジ色とクリームのツートンだったが、
のち、キハ35系も和歌山バスの路線車もオレンジ色一色に塗り替えられたが、大都会を走る
大阪環状線や中央線のオレンジ色の201系や103系は別として、ローカル線を走るキハ35系の
塗色はオレンジとクリームのツートンカラーの方が温かみがあるように思えた
>>21
首都圏色、タラコ塗装のオレンジ一色は最低だったな。
巨額の赤字を抱えた国鉄が、少しでも経費を節約するために
ツートンをやめて一色にしたと噂になっていた。
(真相はわからないが)
やっぱりキハ35はオレンジとクリームでしょ 22
ステンレスカーのキハ35系900番台もオレンジ一色にせず、
ステンレス車体のままの方がよかったよな
30が最初ですよね、半自動押しボタン。
その点ではすごく画期的な車両。
最近では四国の8600系新型特急にもついてますね。
米子機関区に配置されていたキハ35系は境線、伯備線で運用されていたが、
鳥取、松江方面への運用に入ることはあったのだろうか
>>24
ボタン式半自動は大宮工場施工だったね。
八高線にやってきた500番台は半自動ドアでも手動タイプが居た。 >>26
でも、八高線に配置されてた500番台でも、電化直前には
半自動ドアボタンが設置されてなかったか?
(相模線からの転入車は除いて)
既に20年近くも前なんで、記憶があいまいだけど… 氷見線や弥彦線のキハ35系は助士席の窓の上の方にシャッター式のタイフォンが
設置された車両もあった
>>26
昭和47年頃に改造してなかった?
115系1000番台、キハ40系は手動式で211系3000番台から押しボタン式が標準仕様に
なったから当時では画期的だった >>28
その一味が、後に相模線に転属して、昭和61年頃に早い段階で相模線塗装になった
キハ30-25・26だよね
相模線ではシャッターは外してた記憶があるけど、オデコタイフォンはそのままだった
その後、25の方は関東鉄道に譲渡されてたようだけど(関東鉄道ではキハ3016)、
さすがにタイフォンは他車と同じ箇所に移設されたんだろうなぁ
(譲渡後の現車を見てないんで、分からないけど) 国鉄分割民営化前、神戸市内の某所に集められた廃車になった大量のキハ35系が
重機やパワーショベルで解体されている写真が新聞に掲載されていた
>>21-22
キハ35のクリームと朱色のツートンは和歌山線・桜井線の105系にマイナーチェンジされて引き継がれてるけどな。
それもエメラルドグリーン単色化などで消えつつあるし、まさに歴史は繰り返すといったところか。 山陰本線京都口や播但線、山口線、伯備線、境線でもキハ35系が走っていたことがあったが、
これらのローカル線でもキハ35系が走ると都会的な路線に見えるように思えた
国鉄末期の筑豊のローカル線、ごちゃ混ぜの編成でキハ35が入ってるとこの車両だけガラガラだった
ラッシュなんてものは基本的に無かったのだから当然だが
>>27
35-500はドアボタン無し、35-0は有りというイメージだけど、529とか一部にはドアボタン有りの500番台もいた記憶があるね ドア手動化改造してたら重くて開けるのが大変だったのでは?
仙石線の103系でも「握れるドアハンドル」を増設したとはいえドアが重く蹴っ飛ばして開ける人も出る有様だったとか
それに半自動・全自動切替が不可能で通年半自動にする羽目になる
>>36
> それに半自動・全自動切替が不可能で通年半自動にする羽目になる
ドアボタンなしのキハ30・35で、取っ手がある車両でも
「通年自動」とされたのが、相模線なんだけどね
台風レベルの大雨の日や真冬なんかに、半自動ボタンがない車両だけの運用に
運悪く遭遇した時は、それはもう(略) >>36
>重くて開けるのが大変だったのでは?
そうでもないよ
まあそりゃ重くないといえば嘘になるけど >>32
あれってやっぱり実際にエメラルドグリーンなの?
どの鉄道雑誌も青緑と書いてるのに撮影者が下手なやつばかりなのか
写真だとどうみても日根野の103系と同じ色としか思えん。
実際に見たことないからわからんが白帯の入った117系みたいな感じか。 相模線カラーのまま八高線に転属したキハ35ってありませんでしたっけ?
基本的に字幕にローマ字が入っていないのは、外人は乗らないような路線という考え方だからか?
101系には入っていた〔例外あり〕と思う。
>>42
確か、キハ35-520・524は、相模線の電化を見届けずに、
1990年春の時点で八高線に転属してたはず
※キハ35-524に関しては、相模線電化惜別篇のオレンジカードの
写真に出ていた記憶がある
上記2両以外は、相模線電化後の八高線運用のはず
(相模線では一部車両以外なかった、列車無線アンテナを付けてる)
キハ35-103の八高線での活躍は、実は自分にとっては初見だった
ただ、元相模線の車両でも、エンジン交換絡みでの貸出扱いと正式転属が
混在していた記憶があるんだけど… 相模線は前面強化板なしの車両でも前面強化板と同じ塗装してたんだな
>>43 相模色+側扉だけ首都圏色とか
側扉と貫通扉が首都圏色のもあった
>>36-39 八高で一緒に走ってたキハ40の扉の重さはハンパなかったな
実際は重いんじゃなくて、エアーが完全に抜けきらないウチに
扉を手で開けようとするからなんだけどネ。 貫通扉だけ別パーツで管理なんだな
九州のキハ52でキハ58用の貫通扉付けてて顔が違ってるのあった
>>46
国鉄時代に相模線塗装第1弾(キハ30-25・49/2両とも補強無)が登場した時点で、
補強付に準じた前面塗り分けになっていた
>>47
ドア更新(鋼製→ステンレス化)の絡みだろうね>色の混在
相模線末期の時点で、一部車両のドアが錆でボロッと穴が開いていたのを
この目で見たことがある(後で補修されてたけど) 名松線ではキハ35+キハ55といった模型のような編成も見られたね
>>47
キハ40の扉の重さ懐かしい。二人がかかりで開けたりしてた。乗り過ごしまいと必死だった。 >>46
うん。
今でも活躍している、いすみキハ30 62や水島キハ30 100は、相模暮らしの当時は補強板はなかったものの、塗装はそれに準じていた。
ただ、若干、前の帯は低めに塗られているのが多く、ジャンパ受けのあたりで塗り分けの下辺が来ていたと思う。キハ30 46とか補強板ありと同じ高さの塗り分けになってたようだけど。
そもそもキハ30や35って育ちの個体差が多くて、顔が微妙に違ったのが多かった。 >>56
補強板でも、角の部分の処理が車両によって微妙に違ってたんだよね
完全に角状態のもの、微妙にRが入っていたもの…
62と100でも、オデコの塗り分けが微妙に違ってたり…
(62は、クリームが微妙に屋根に廻り込んでたはず) ミスなのかどうか知らないが、水島の車両は国鉄色ながら車両番号にハイフンが入ってキハ30-100になっていますね。
キハ37,38もハイフン入り。
>>54
加太の堰堤でしょうか?
しかし凄い編成ですね。
模型で再現するのも大変w
首都圏色が混じっているので昭和50年代半ばですかね。 >>45
関連スレで書いた気もするけど、茅ヶ崎→高崎の車は
転属
35-*210・*211・*212・520・524
30-☆30・*67・☆77・☆97
貸出
35-100・103・519
30-26・505
の計14両だったと思う
*と貸出車はエンジン交換せずに廃車になった。
☆は一時期貫通扉のみ朱色になった車両ね。
移動時、全車無線アンテナとデフロスタ取り付け、転属車は幕交換していた。貸出車は普通と書いた紙を貼付けてたっけかな 幡生や鷹取で製作したキハ38の種車になったキハ35は、幡生や鷹取まで実際に回送して部品外したの?
書類上の種車というだけ?
>>54
おもしろい編成。気動車の楽しさ満開。
頭の55or26は背中は単品だけど、35は2両組、58と47も2両組の機能的には文句ない編成。
毎日こういう編成なのか、それとも違うのか。
こういう列車だと駅での整列乗車はどうなってたんだろう。
昔のイメージは適当に客がホームに居て、列車が入ってきたら乗車口に客が移動する感じだったけど。 トミックス製のキハ35系の4両セットが発売される前、エンドウがNゲージの
キハ35系900番台と朱とクリーム、タラコ色のキハ35、30、36をリリースいたが
モーター無し車でもトミックスやカトーのキハ58やキハ20に比べると、販売価格が
少々高かった
>>63
トミックスの昔のキハ35はブラスシリーズとかいってボディが真鍮で出来てて値段が非常に高かった 54の写真の編成は亀山か松阪か多気で分割されて紀勢本線、参宮線、名松線の
運用に入るか、または逆に紀勢本線のDC列車が参宮線、名松線の運用のDCを
多気、松阪で連結して奈良方面へ向かっているかどちらかだな
SLの撮影で関西線に通ったときは
キハ35に乗車するのは避けた気がする。
当時は子供だったが、ロングシートは嫌だったな。
ところがどっこい、加太へ向かうDCは9割がた35.36だ
奈良電化まで、きれいな背中合わせ2連が多かったね。和歌山の45も。
奈良持ち「きのくに」の差し替えで、湊町〜奈良を走る58系6連快速は、ベンツみたいだったw
四国地区のキハ35系は高徳線、徳島線で活躍していた
>>72
俺が許すから語ってくれ。
一枚引き戸だったが開口部の有効幅はキハ35系と同じ
だったっけ? 常総筑波で思ったのだが
関鉄移籍車は取手事故まで貫通路通行禁止だったよね?
301とか貫通扉の両脇に手摺り増設してあって、幌外してたような気がしなくもない
本家と分家の並び
常総線内での元キハ35系とキハ900との並び
っか、35系知ってるならすぐ分っとーと
確か分家の方がエアサスでグレードが高かったんだっけ?
>>78
ああ、なるほど!
サンクスです。
どちらももう引退しているのですか? 在来車新塗装でこんなきれいな900の写真は初めて見た。
キハ35の運転台助士席側は113系初期車みたいに折り畳み可能なんだな
113系は冷房化で制御スイッチ盤が増設されて折り畳みが出来なくなったのが多いはず
仕切り板、貫通路側は運転席の保護、半固定側は乗務員扉の保護。
しっかり詰め込める高度経済成長時代向けによく考えられたギミック。
外貫通ドアを運転席保護にするのがある。
あれは風が通り抜けて、寒いぞ。
寒いといえば、関西線も加太辺りは内陸の山の中なんで冬場は結構寒いんだよなあ。
そこを外釣り3ドアロングシート車で越えるマゾヒズム
関東鉄道の元キハ30、正面に補強がないから何か違った感じなんだよな
乗車率300%だとDMH17Hが1基であるために物凄く加速悪かったのでは?
気動車は応荷重制御が難しく初搭載がキハ201だとか
運転曲線は全部コミコミで引いてあるから、心配するな。
起動抵抗さえクリアしたらなんとかなる。
問題は止まる時。雨で満員だとズルズルいくだろうし、最大圧で締めたら緩解不能なんてあるそうだよ。
旧国でも。
>>87
地元の桜井線が、電化された後に前面強化が始まったのか、ない方がしっくりくる。 >>89
最近の電車と比較すれば低加速度。
でも、新製当時に走り回っていたSL列車と比較すれば、はるかに高加速性能。 >>89
川越線のラッシュで乗った時には特に加速悪い感じじゃなかったぞ >>93
だいたいどの駅も平坦だけど、指扇だけは東西とも駅出てすぐ登り坂なんだよね。
スプリングポイントだったけど、構わず加速かける人と最後尾が出るまで我慢する人と様々だったな。
後者の上りだと今の西大宮辺りまで変速で引っ張り、直結にしたら新大宮BPくぐるまで力行とか。
あれから30年…。 和田岬線が極端だったな
気動車で3M3Tって割り切りすぎたな
30キロしか出なかった
ミャンマーでは現在でも気動車で2M4Tとかやってて20キロ位しか出ないらしい
>>95
回送時は結構飛ばしてたぞ
知らないなら書き込まなきゃいいのに >>87
キハ100は補強なしより、標識板掛ヶ、手すりやステップを撤去して、外はめテールだけ目立ってるから違和感があるね。
国鉄時代のキハ30だと、マフラー筒横の席から前見るのが楽しみだったけど、たまに座席の下からプスーッて音がしたから、おならも隠せた。
あと、ミャンマーに行ったキハ38の動画が上がってるけど、扇風機のキューッって音もそのままで懐かしい。 東日本のエンジン換装車は、使ったのは施工から正味5年くらい?
解体時にスペアに回されたろうけど、足尾の保存車は搭載されたままなのかな。
相模線には35-100と30-100の100番コンビがいたんだな
関東鉄道の元キハ30の乗車体験に電話で申し込もうとしたら、速攻で定員に達してしまったようで申し込めなかった
他の形式の時はそうでもなかったのだが、元国鉄車は人気あるんだね
水海道の元キハ30、だいぶ錆付いているね
このまま解体?
>>98
足尾のやつは自力であそこまで来たからエンジンあるぞ。
7年前だかに保存会によって車体は綺麗に整備、再塗装もされたが足回りはまだ整備されてない。
一応は動態保存も視野に入れているらしいが、わ鐵も保存会も資金的に厳しそうだ。 八高線での97キロ激走が忘れられない。
初めて乗った気動車だった。
加速中のエンジンの唸り、中立になった後の静かさ、動台車の固い乗り心地、押しボタンで開くドア、畳める車掌室。
どれも新鮮だった。
>>105
キハ35の関西本線快速に乗ってみたかった
電化後の103系快速の爆走ぶりを見ると、すごいことになってそう
キハ58の伊賀忍者号には乗ったことあるけど、臨時だったせいか大した走りじゃなかった この時期になると思い出す…
「暑くて窓を開けたら、熱風が外から吹き込んできたw」
キハ30系時代の相模線の想い出
夏暑く、冬寒い車だったな
碓氷に通ってた頃、東上民だったからよく乗った。
冬は38が入ってたらそれに乗ったけど
夏の38はあまりクーラー効かなかったから30/35で窓全開。
>>105
やろうと思えば、キハ40系でも時速100キロ近くは出せる。
エンジンの負荷はものすごく大きく、マーチで言えば、180キロを出すような状態に等しい。
※烏山線のキハ40に乗った時、宇都宮線に入った時には、エンジン全開で95キロ以上まで出していた。
宇都宮線は比較的平坦で駅間距離が長いので、キハ35系でも100キロは出せるぞ。 >>104
東の除籍前に持ち込まれたの?
西桐生で破壊される記事しか知らないので、足尾へ自走は初知りです、ありがとう。
もしレストアするなら、資金はともかく大間々でないとやりきれないよね。
ここまで時間が経つと、エンジン本体はもちろん電装やエア系もガチガチだろうし。 >>106
小学生の頃、奈良区のSL撮影に行くときに乗ったが
爆走していた記憶はない。 113系も35も最高速95km
加減速と勾配均衡でおとるから速度定数は落ちるけど、大和小泉あたりは爆走してた。
加古川線で外吊り扉を目の当たりにしたときは衝撃だった
加古川駅で扉の開閉を飽きもせず眺めてた
>>113
加古川線ならキハ35眺めて
衝撃受けてる場合じゃないだろ!
伝説の珍車キハユニ15は見なかったのか?
特に小窓に改造された3を ああそう言われてみれば加古川線にそんなのがいたっけなあ
奈良線で通学に利用したよ、小さい灰皿が懐かいわ、大回りで乗り鉄した時、木津ー奈良間の爆走が忘れられない。
>>117
確かにいてたw
しかし小窓&スカート付きは加古川線だけ! >>117
和歌山線・桜井線は2ドア車のキハユ二16な。加古川のよりスタイルがいいよ。
一時期、キハ35みたいな切妻のキユニ19もいた。 >>121
切妻といえば、キハユ15だな。
幼少の頃一度見ただけで強烈な印象とともに記憶に焼き付いたわ。 相模線に居た、強烈な印象の車って、何だろう?
リアル世代じゃ無いもので…
>>123
電化直前(1990年頃)なら、やっぱりステンレスのキハ35-904が筆頭だったでしょ
その次が更新車のキハ30-62・100あたりか?
その当時の相模線キハ30系は、後天的な改造(ヘッドライト・補強・更新など)で
各車がそれぞれの個性を出していたように思うけど 晩年の白に青帯でも充分インパクトあったわ。
八高線転籍後のタラコ色との混結も。
八高線転属後のドアだけタラコのほうがインパクトあった
>>126
ドアって貫通路のでしょ?
あれは何でも有りだったね >>123
タイフォンが幕部にあった30-26とかなんかも印象的だった 90/2/18
キハ30 34↑八王子
キハ40 2087
キハ30 503↓高崎
DD51 887
ホキ55719
ホキ45727
ホキ5732
ホキ45702
小宮だったかな?
タラコ色のは田圃の中では良く目立ったな
晩年に緑色に塗られたのが現れたがあれは保護色になって保安上はイマイチと言われた
>>132
川越線民だが電化して緑色の電車になったが特に問題なかったぞ トラムウェイの相模線キハ30模型だと、前面の青帯は補強板付きの位置。補強板なしはもう少し低い、ただし例外あり。
>>138
キハ30-46(元久留里・木原線)あたりがその例外だったっけ? 前面補強板着く前に電化されて、見なくなったなあ。
なので、補強板ある方が違和感あるわ。
補強板ていわばアングル材だな。
貫通路有りの前面、横はすぐ乗務員扉でどれほどの防護性だったのか今見ると疑問だわ。
あの分厚い鉄板はそのままに、運転室内側に食い込みそうだもん。
>>140で思い出した
相模線電化後に久留里線に転属したキハ30-62・100は、
転属後に前面補強板を付けてたんだよね
相模線時代には、車体更新はされたけど補強板までは付けてなかった 相模線だが、35 156はプロテクター無し、35 165はプロテクター有りだったな。
あと、押し込み通風器の30 505、30 506が目立ってた。
日中の2連は30 41、30 42の出番が多かった印象。
相模線は前面強化車少ない
八高線は前面強化車多い
ってイメージ
特に八高線の30で相模線からの転入車じゃないのだと30-19と503くらいしか強化無しのはいなかったかと思う
>>144-145
35-156は相模線にはいなかった(158だったら補強付→関東鉄道で部品取り)
相模線色時代のキハ35で補強がなかったのは、81,97,101,103,170,212,524,531,904
逆に相模線色時代のキハ30で補強付だったのは、14,80,505の3両のみ
非電化時代の頃に既にデジカメがあって、詳細な写真でも激写できてたらなぁ… 応荷重装置が無かったためにラッシュ時の運転が大変だったのでは?
ただでさえエンジンがDMH17Hの1基だけでラッシュ時に乗客の重みで加速が滅茶苦茶悪かったはず
満載の通勤客を降ろしたら、ブレーキテコの位置が変わって緩解できなくなった、という話は読んだことある。
>>152
関西線朝ラッシュの湊町行きが超満員で天王寺駅に到着し、乗客が大半下車したのちに
緩解不良発生の流れな。 >>155
この時に対処法ミスってブレーキコックを閉めたまま発車させブレーキが効かず駅ビルに突入してしまった
油圧式車止めを装備していれば壁を突き破るなんて事は無かったのに
最近は線路の摩擦を利用して衝撃を吸収するタイプもある
ほんの短い間、酒田〜新潟でも走ってた覚えがあるよ、6両編成中2両ぐらいがキハ35の時期があったか、
新潟駅到着は昼前で、鶴岡までは良くても新潟駅の通学時間帯は電車じゃないと無理、今のキハ40より出足は軽快だった印象だ。
避けられる環境の人はいいよなあ
オールキハ35だったんだぜ
もっとも電化して103系になったらドアの数増加&ドア開閉ボタン無しで開けっ放し
と余計寒い仕様になったわけだが
>>156
近鉄の青山峠事故も類似しててブレーキ不緩解の対応処置をミスってコックを閉めたまま発車させてしまった
しかも安全側線に100キロ近いスピードで突っ込んで正常に機能しなかったとか >>160 先日、近鉄スレで話題になったけど、青山峠の場合はコックが閉まった状態で車止めを外してしまったのが原因だよ。
コックを閉めて空気ブレーキのタンクにエアーが入っていなければ、モータは作動しないというフェイルセーフになっていた。
しかし、下り坂になっている所で、モータに電気ブレーキ、そして空気ブレーキも作動しない状態で車止めを外したから、電車が暴走し始めたというわけで。
キハ35の場合、空気ブレーキが機能しなければエンジンがかからない、といったフェイルセーフになっているのかな? >>159
ドア開閉ボタン付きの人はいいよなあ。
ドア開閉ボタン無しのオールキハ35だったんだぜ。
もっとも電化して101系になってもドアの数増加&ドア開閉ボタン無しの開けっ放し
と、あんまり変化なかったんだが。 >>159
電化して半自動ドア対応車が入った相模線は、まだ天国だったんだw
#初年度の夏は、冷房ガンガンでドア開けっ放しだったけどなw 確か35の半自動ドアは、ものすごく軽かった覚えがある、
東京か近辺から旅行に来た女子グループは、半自動を知らないで立ち往生だった、一人が「あ、確か八高線もこうだったと手で開けた」
半自動ポジションだと、解錠時3センチぐらい開くよね
>>162
片町線か
長尾-木津電化の時まだギリで101系いたんだな
>>163
ガミ線は新車投入だから恵まれてたな >>167
川越線な
それも川越以東
大宮-高麗川間の電車は半自動だったけど
それもじき無くなった >>169
関西線って電化直前までキハ35以外もいたろ? 民営化跨りの木更津にキハ28も配置されてたけど、何に使ったんだろ?
キハ35は寒い思いが強い
特に九州
キハ35以外があれば、100%そちらに移動していました
>>170
きちがい相手にマトモにレスする必要なし 1988年の3月に柘植から亀山行きに乗ったら、キハ35がキハ58系に
サンドイッチされる形だった
まだ残ってたのかと思い、嬉しくなって乗車したが、ドアの半自動扱いを
していないので、加太と関で停車する度に開いたドアから寒い風が
入ってきて閉口したw
キハ35に乗車し続けたのは俺だけだったw
>>175
そのむかし
奈良線を走った臨時快速あすか
前後がキハ58系で中間35系の4連だったよ
こっちの理由は当時自動化されてなかった奈良線を通過するのに、タブレットキャッチャーが必要だっだから。
関西線の35+58の組み合わせは、馬力アップのためでしょうね。 キハ35 217出生の秘密って、オハネフ25 47やキハユニ25 7みたいなもん?
>>179
んだ
一両だけ予算がついた
で、びみょーに設計変更
その後増備なし
216を岡山で実見して、217の特殊さに気づいた昭和晩年…… 何で通勤型(101,103電車の気動車版)なのに、4扉じゃないんだよ。
四扉必要な程混むなら電化するだろうね
扉は側面強度下げるから気動車は特に増やしたくないだろうとマジレス
>>183
関東鉄道キハ755(元南海キハ5500)「…」 そんな田舎私鉄の所詮改造車を引き合いに出されてもな
手は出せないほど、数センチしか開かない
でも出すやつはいるだろう
>>185
キハ755の増設扉ってステップないんじゃないの? 紀勢本線キハ25系が顰蹙を買ってるが、キハ35系を知る世代なら何を今更だなw
満員の乗客が重すぎ坂を登れなかったとかあった?
通勤型で180PSはいささか無謀ともいえる
関西線の平野で超満員(ステップにまで詰め込むくらい)になるけど
天王寺へ向かう高架を登れないという事はなかった
すごいエンジン音の割りに、加速しないけどね
和田岬線の3M3Tも無謀だった
急勾配は無かったが如何せんパワーウェイトレシオが日本一悪く?最高30キロ位と客車に毛が生えた位の性能しか出なかった
103系になってから時短した
SLブーム末期の頃
休日の関西線キハ35は
撮影に行くファンで満員だったが
途中で登れないなんて事はなかったな。
定員の2倍押し込んで約250人 max300人?
50kg/人が当時の基準だったと思うから、15t
積車46tぐらいか マイテ49並だね
北海道は寒冷地装備に金が出て行く為か、多少の勾配路線でも1エンジン車2両が相場だったな。
本州とは逆にキハ56よりキハ27が多かった(お座敷改造も)
>>198
やっぱり新規投資するだけの需要が見込めなかったんだろう
キハ285系がキャンセルされたのも、そういう背景があったのではないか
俺が思うには、北海道は本州同様に気動車化を進めるよりも、客車列車を主体にした方がコスパが良かったと思う 厳寒地単行となるとキハ53.54に頼らないとヤバいことに
いつでも乗れると思っていたが、
最後に乗ったのは、八高南線電化前の最終日だったな。
>>200
だから末端線区でガラガラなのにキハ22やキハ24の2連が多かった
(単行禁止の規定が有ったのかも…) 一時的にでも、レギュラー運用でキハ30単行だった線区は全国でどこがありましたか?
>>203
川越線
昭和40年代前半くらい
あと画像探したら
木原線とか美祢線、山口線もあったよ >>203-204
相模線の橋本〜原当麻・厚木(JR化後のダイヤ改正まで)も忘れずに
単行列車のジョイント音も、独特のものがあったよね というか、この流れで久留里線が出てこないのにはぞっとしない。一番最後まで単行運用があったのに。
最後に見たのは97年10月あたりだったかな。
あと足尾線も20、40と共通運用になってたから30単行あったかな?
>>203
新宮→熊野市の最終と、熊野市→新宮の始発がキハ30単行だったな
特に熊野市→新宮の始発は新宮夜行乗ってきた人なら見たことある人もいるかも >>210
かつては天王寺方面直通グリーン車付き6〜7連だったのにね。
それと荷坂峠越えは大出力車を必ず連結したから、単独運用はちとレア。 関東鉄道キハ100は単行の運用。
臨時で2両編成走らせたが、走行制御はともかく、放送とドアのリンクが出来ずに個別で入れていた。
>>211
あの運用は、亀山を15時くらいに下る新宮行きにキハ58+キハ28の下り方にキハ30単行をつないだ3連で新宮着いたら58+28は切り離して鵜殿方から留置線に入り一晩滞泊、キハ30単行は熊野市で滞泊。翌朝新宮に戻りまた58+28と繋ぎ上っていきました。
JR化後も1988か1989年くらいまで同じ運用が続いていました。 キハ35のドアエンジンは101系みたいにTK6が床下に入ってんだな
晩年は部品確保に困ったのでは?
サハ103-750番台は晩年はゴムパッキンをカッターナイフで自作する有様だったとか
>>214
古くなるにつれ、戸締めの速さがばらついたり、とちゅうで引っかかるような動きしたり
ガタガタしてました 相模線だと有馬の学生がステップに捨てた、乾電池が詰まるのよねぇ あとオロナミンCの瓶
オロナミンCとワンカップは貫通幌の定番でしょ!
(各地の4ドア通勤車)
※あと常磐赤電→酒
あのサキイカとワンカップの人たちはもしかして原発労働者?それとも彼らには特急ひたちの指定席が用意されてた?
ドアと開口部のフチはどういう合わせ目になってたのかな。
ドア外側にはゴム板があるが車体側も少し出っ張らしてあったのか?
キハ35系 VS キハE130系
満員に近い状態でもスムーズな加速はキハE130系の勝ちだ。
紅の豚で言うと、サボイアとカーチスを零戦とYS-11で比べているみたいで全然面白くない。
キハ38はコンピュータによる構造解析ができるようになったから普通の戸袋構造を採用できた?
丁度NECのPC-9801が出来た頃だったのでパソコンで構造計算できたはず
キハ35の頃は大型コンピュータしかなかったためにマルス中央装置位しか使われてなかった
>>222 外吊り扉に混雑路線ながら微妙な地方路線的泥臭さを感じる
(別に揶揄とか嫌いとかじゃなくて)。 幼児のころ、天王寺駅で関西本線のキハ35を環状線電車の車窓から見た時、
まさかディーゼルの通勤列車とは思えず、市営地下鉄が地上区間に出てきてるのだと思い込んだ。
ツートンの塗装が似てたし、パンタグラフは無いしで。
何より子供心に、DCというのは田舎に走ってるものだという先入観があったから。
>>228
俺は大阪人だが、幼稚園児の頃はディーゼルは基本的に田舎を走るもので、関西線は例外と思い込んでた。
小学校に入学した頃になると、山陰線や奈良線、和歌山線、桜井線、片町線、加古川線など関西地区でもディーゼルが走る路線が幾らでもあると解った。
こういうのも「灯台もと暗し」と言うのかな?
今では殆どの路線が電化されてしまったな。 連投失礼
環状線の101系または103系と、関西線のキハ35系のバトルは環状線の全勝だったな。
俺が小1の秋に漸く関西線が電化されて101系になって、バトルは拮抗するようになった。
餓鬼の頃はディーゼルカーといえば相模線のキハ35系しか知らなかったなぁ 3両編成の真ん中の車両はクロスシートだったからキハ10か?
>>228
相鉄バス洗車係のニシヤンが言ってた。
大阪の50系保存車は関東鉄道のキハ310の旧塗装車に似ているってね。 関東鉄道にはもう元キハ30・35・36はないんでしたっけ?
外釣ドアが締まりにくかったなぁ。
乗務員室は冬は暖房効かずに震えてたわ。
急行「うおの」の長岡増結車にキハ35系が入るのは、
実に凄い事だと子供心に感じたものです
佐渡やとがくしは冷房付きエアサス車
それとキハ35で同じ急行料金を徴収するのですから
101系と共通のTK6形ドアエンジンを使用していた最後の形式でもあるな
ドアエンジンが床下にあり床に点検蓋があるのが特徴
ただサプライ部品枯渇に悩まされてたみたいである
>>241
回送扱いではなく、料金を取って乗せていたとはすごいですな。 >>243
そう言えば、基本的に500番台だけが配属されていた新潟エリアに
1両だけ0番台がいて、その車両は荷物車代用として
使用されてたんだっけ…? >>244
海水浴臨でキハ35を増結したら新聞記者に写真撮られて新聞沙汰になったとかあった だが実際には乗客は床にレジャーシート広げて寛いでたり案外好評だったとか
>>246
急行が超満員で上って来ると聞いて、急遽木更津にいた予備車のキハ35を増結したと読んだ。 水島の30は今がおすすめ。
冷房シーズンになると運用から外れる。
和田岬線のやつは片方のドアを2か所塞いでたな
部品確保のため?それとも隙間風対策?
関東鉄道竜ヶ崎線の気動車は片側にしかホームが無いのに左右対称でホームが無い側のドアは滅多に開けることはない
>>250
どうせ開けることはないんで、ステップ対策も兼ねて思い切って撤去したってことでしょ ステップは大きそうだね
関東鉄道はステップ埋めちゃってるからそこのスペースにも人が立てるし
和田岬線のやつはドア撤去跡に座席増設してなかったんだな
客車時代も短距離乗車と割り切って座席が少しだけしかなかった
和田岬の混雑と時間を考えれば、いすなしでよいぐらい
その和田岬が、今ではリニア地下鉄で三宮と直結なんだよなあ。
客車時代も座席削減の上にホーム側だけ3扉にしてたからな<和田岬線
>>231
同じくガキの頃は相模線、八高線、久留里線、木原線しか知らなかったから気動車=キハ30・35だった。 >>258
東京・神奈川・千葉だとそうなるのかもね
JR初期だと、キハ40・45・20も八高線で使われ、
キハ37・38は久留里線・八高線で活躍してたから、
必ずしも等号にはならなかったけど
ただ、相模線ユーザとしては、気動車=キハ30系ってのは否定しないw>自分 >>259
八高線ユーザーだからキハ20とキハ40乗ったよ。
キハ30・35が大多数の中で目立ってた。
キハ38もデビュー間もない頃から何度も乗ってたな。
電化前日の最終も自宅のベランダから見送った。都立八王子東高校の鉄研部特製ヘッドマークが掲出されてたな。 >>260
スレ違いになってしまうけど、一時的にではあれ、東京都内でも
キハ40が半定期的に活躍してたと言うのは、別の意味で衝撃だw
キハ20なら、相模線でも使われてたから、特に驚きではないけど
八高線のキハ30系…最後はトイレ前の2人席で座って、
例の揺れを堪能した記憶がw 八高線といえばキハ30・35のイメージが大きすぎてキハ20がが走ってたのは見た事が無かったな
国鉄末期の頃はまだ半自動ドアのキハ30もいた
多分相模線電化でやってきたキハ30・35で置き換えられたのかみなくなってた
相模線塗装のもそのままでしばらく走っていたような
キハ38は八高線では電化までそのまま使われたけど、久留里線にいってからだいぶリフレッシュされたみたいね
キハ40は一度だけ遭遇したことがあって、八高線しからぬクロスシートにびっくりしたもんだ
製造コストケチるためなのか角ばった車体なんだな
キハ23は角が丸いが
昔水郡線でキハ30を見かけた事が有るんだが
郡山まで行けば最北のキハ30だったのかな?
酒田行きとか鼠ヶ関行きとか吹浦行きとかに普通に運用入っていたからな
新潟を走行した事があったが隙間風凄くて大不評買ったのでは?
暖房も座席下の面積が少なく他形式と比べ弱いだろうし
新潟地区のキハ30が定期運用で磐越西線に入ったことはないみたいだな。
米坂線ならあるが。さすがに只見線はないだろう。
地元の方には申し訳ないが、わざわざ寒地仕様車を新製投入するほど、当時の新潟地区はラッシュが激しかったんですかねえ。
1990年代に入ってから興味を持ったから
美祢線の大嶺支線と和田岬線でしか乗ったことがない。
俺の場合、国鉄〜JR初期は小学生で遠出できなかったし、乗れたのは和田岬と関鉄だけだ
東京地元なのでキハ35系は相模、八高、川越、久留里で体験。よく
旅先のローカル線でこの系列に当たってガッカリという話を聞くけど
幸い自分はそのような災難には遭わないで済んだ。
>>269
小学館、国鉄全線各駅停車-2、東北530駅より
紀勢線のキハ35 新宮-和歌山 6時間以上
これでも?、
>>276
6時間以上県境を越えないのもすごい。
ただし新宮→亀山方面だとすぐに県境だが。 >>276
大概、キハ22や55あたりの他形式が編成中にいそうなもんだが?
キハ35だけなら平成の701に匹敵する、地獄の我慢耐久編成だなw ガラガラに空いてればキハ10系や45系の狭いボックスよりロングの方が快適だったと思うがな
>>281
君、変わってんな
競争率低くて良さげだけど、変態プレイとか好きそうw 確かにロングの方が良いなんて不可解な人だね
僅少な意見だろうど、だからってそういう言い方は嫌味だな>282
>>276
非電化の時ってディーゼルカーの直通列車があったの?
電化後の1980年12月の時刻表しか持ってないんだけど
この時点だと直通はPCだけなんだけど 最近のガキはクロスよりロングが好きだな
他人と近くで向き合うのに耐えられないらしい
>>286
究極形は叡電「きらら」や東武「スカイツリートレイン」みたいな、
外を向いて座るって形か
もしくは個室? >>254
捉え方の方向が真逆
鉄道車両ってのは規定文で表向きは座席をしつらえないといけないことになってたからね。 >>281本人じゃないが、俺もすいてたら転換クロスよりロング席がいいわ。
要するに脚のばしたいんだよね。
転換クロスで足下があいてるタイプだとしても不十分で、しんどい。
すいてるときに限ってだがそういう点でロングはラク ↑前提やらをきちんと読まずちょっと書いただけでこういう思考飛躍する奴が一番不快
>>292
こういう馬鹿が、足蹴られたと因縁つけて絡んでくるんだよなあ どうせ空いてる車内で不快感晒すなら
転クロ向かい合わせにするかボックスで足伸ばしたほうが楽だろ
マイノリティーを正当化させるのは無理があるわ
老害爺かゆとりだろう?見苦しいぞ
>>291は>>290に向かっていったわけじゃないよ
ただ足伸ばしてるのってヤンキーやヲタ臭いの問わずいるからやだなーって愚痴っただけ ___ _
ヽo,´-'─ 、 ♪
r, "~~~~"ヽ
i. ,'ノレノレ!レ〉 ☆ 衆参の両院のそれぞれで、改憲議員が3分の2を超えております。☆
__ '!从.゚ ヮ゚ノル 総務省の、『憲法改正国民投票法』、でググって見てください。
ゝン〈(つY_i(つ いよいよ日本国憲法改正の、国民投票が実施されます。お願い致します。☆
`,.く,§_,_,ゝ,
~i_ンイノ
非電化時代の相模線にいた車番が斜めに書かれてた車
なぜか萌えたw
でもすぐに消されてしまった
電化されてお払い箱になったせいもあるが
キハ35-900番台はJRに一応は承継されたもののコルゲートがあるために鋼製車とは違い窓下にJRマークを貼り付ける事が出来なかったな
EF81-300番台はJRマークのステンレスの板を溶接しているがキハ35-900番台は廃車が近かったためか取り付けられず
>>298
キハ35-904だけコルゲートがあるためプレートだった
唯一相模線色となった900番台である >>301-302
904(相模色)はJRマーク付けてたっけ?
当時日常的に見てたはずなのに、記憶がないw >>278
キハ35は混雑の激しかった関西線大阪府内区間のラッシュ対策用として登場した車両。
東北ローカル区間の合理化を目的とした701とは全然コンセプトが違う。 >>306
外吊りドア自体はないとしても、戸袋がなくてドアがスライドする車両ならあるよ
東武100系とか キハE+35系気動車
エンジンはDMF15HSA-Pエンジン(265馬力)、変速機はDW10を使用。
外吊りドアを採用している。ドアチャイムはE231系と同じ。
走行機器はキハ40と同じなので、加速は非常に重めとなる。
88年の冬、高校入試の帰りの相模線で光○相模原の生徒が後頭部で窓をガンガン叩いてて海老名駅に着いたと同時に割ってたな
生徒は車掌に連れて行かれた
>>310
光○相模原←原当麻にあった漢字も書けないような連中が集まった鈴蘭みたいな高校だよな。
タイマ高って、いかにもそれっぽく呼ばれて神奈川県央部じゃ恐れられてったっけ。。。
まだキハ30と半分ぐらいはキハ10が残っていた頃の話じゃよ。。。。 昔の国鉄気動車はブレーキシリンダ圧力計付いてないのあったな
BP管圧でBC圧を把握するテクがあった
>>312
自動空気ブレーキの吊掛電車なんかも国鉄・私鉄を問わずBC庄指針は
無かったね。ポツ8減圧、場内信号でポツ2追加なんて言ってた時代。 BP管圧より応答が先の釣合ダメ管圧でハンドルさばきすると楽。
>>211
新宮〜熊野市なら、荷阪峠通らないやん。 これ戸袋部分の窓から頭だしててドア開閉の際、首切断された人いないの?
>>317
検索したら過去スレに当たった
大きくは開かなかったんですへ
キハ35は常総線でのみ乗りました 相模線でこれが来ると、
「わあ、自動ドアだ!」
ってウキウキドキドキだったんだぜい。
キハ38はコンピュータによる強度計算が出来るようになったので通常の戸袋構造になってる
新車開発のために国鉄でメインフレーム買ったとか?
>>317
関西系のステッカーだと、「指をつめないように」。
これを見てビビった関東方面の人がいたらしいww。 戸袋部分は数センチだけしか開かないようにして安全を確保してるが小田急2400形・2600形みたいに通風グリルでも良かったのに
非冷房なのでラッシュ時に乗客が酸欠にならないように少しでも換気能力を上げるための苦肉の策か?
そう。
開けられるようにしてたらどんなトラブルになるかわからないから
開けられないようにした
やっぱりみんな戸袋部分の動作には興味あったのですね
そういやドア開口部の上辺左右ってカクカクではなく、なぜか丸みを帯びてるんだよな。
強度絡みで一体の門形鋼材になってるのかな。
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外吊り式の両開きドアは、冬場は寒気が流れ込むため、
特に氷点下15度になる寒冷の時期、雪の日などは暖房が効きにくい。
もし、只見線にキハ35系気動車を導入していたら、豪雪の時期では問題だな…。
>>330
只見線では問題だろうけど、新潟県内では使ってたんだよな
キハ35-500ってのがあったくらいだし。
越後線のあたりって八高線あたりと比べたら冬はやっぱり寒かったんだろ? 冬の朝は空っ風で氷点下の八高の方が、湿気があってあまり氷点下まで下がらない新潟より寒いと思うんだが。
八王子始発4時代の高崎行き、車内が暖まるのが東福生過ぎたあたりからだったな。
キハ35を関西線の奈良−亀山の山線で使用してた時は冬季の保温性で問題が多かったらしい。
1985年頃から関西線非電化区間がキハ58系に置き換えられていったのもそれが原因だったんだろうな。
昔の話ですが、関鉄常総線の第1回鉄道の日の水海道車両基地に行きました。
まだ当時は国鉄清算事業団から購入し、部品取り用で未改造のキハ35系が「肥前山口」の幕を出したまま、下妻駅に留置されていた時代でしたが、
基地の人に外した古い字幕はどうしちゃったの?って聞いたら、外に放ってあるから欲しけりゃあげるよ!って話になり、喜んで付いて行ったら現物が見当たらず、
案内してくれた基地の人もアレッ?ってなって、オ〜イ〇〇君!ココに積んどいた古い幕とか何処にやったの?って聞いたらば、こないだ全部焼却処分しました〜!って答えが返ってきて、ガックリしたのを思いだしました。嗚呼勿体ない…
水海道工場の相模線の路線図は当時の整備士さんの心意気だろうけど、そのうち剥がされてしまうんだろうな。
両運の30を造ったのは3連5連等の運用の為?
それとも超閑散区間での単行運用を想定?
30+35での2連が主目的のような?
実質36は少数で終わってるし、
36+35の組み合わせが多数あってもおかしくないのにガミや八高でのこのコンビの記憶ない。
3ドアロング車ってこの当時は非難もんだったと思うが、
ガミ線撤退後に113がグリーン除いてオールロングになったんだよな。
>>340
超閑散区間じゃなくてもキハ35が走ったようなところだと単行列車の実績がないところの方が少ないと思う
あと、両運車は便利だからね
向き気にしなくて良いんだから 木更津での入換を見たけどキハ37・38は誘導係が添乗しバック運転してた
本当は全車キハ30が良かったんだろうな
片町線でキハ30の単行に乗ったな。当時は当たり前だったけど車掌ものってたから車補買った。
>>341
無人駅では車掌が集札もするから、35+35の2連よりも、30+35の2連の方が、30の連結側の運転台でもドア扱いが出来るから、使い勝手が良かったのでは? 最初はキハ35なんだよね。で、36、30の順
片運転台でいこうとして様子みて、やっぱり36は使えないから30にした感じ。36は両数も少ない
通勤型とはいえ非電化路線だし、入換が多いから運転台ある方が便利だったんだろうね
まぁ電車でも地方はまだ40系や50系多くて運転台付きばっかりの時代だし
通勤型とはいえ、ステップ付きの四ドアは無理だったんだろうね。
山陰線京都口に入っていなかったのが意外なんだが。
何か裏でもある?って思ってしまう。
>>348
入ってたよ
ググれば丹波口駅に停車中のキハ35とか出てくるぞ ラッシュ時に乗客が重すぎてDMH17Hとも相まってなかなか起動しないとかあった?
下手したら変速機オイルが過熱してしまう
>>350
なんて言うんだっけ、当時のDCで発進の時一回全開近くグオーって回転上げて、
動き出したらすぐドカンと回転落として一回静かになって、またすぐグオーって繋い
でグングン加速していく運転方法。
あの運転は見たことある。最初はエンストしたと思った。
が、後で高負荷の時の発進方法と聞いたよ。 新潟に居たキハ30 505・506は相模線に馴染んでたな
冬場は有り難かったのかも
和田岬線が一番過酷だっただろうな
気動車のくせに3M3Tとか
大昔の機械式気動車みたいである
>>353
> 和田岬線が一番過酷だっただろうな
坊や、過酷じゃなかったからトレーラーを牽引出来たんだよ。
起動後は4ノッチや3ノッチの絞り力行でも余裕だったから。 >>354
和田岬線より運用終えて鷹取に引き上げるさいの本線に向かう勾配はキツかったんでないの
距離が短いからどうにか上れたけど 和田岬線はキハ35だけでは厳しかったのか、キハ58を連結した試運転したのがRMに載ってたな
>>347
未だアルミ製気動車も無理だよね
排気管接合部に溶損の恐れが有るから… >>347
関東鉄道に4ドア車が1両だけあったけど、あれはステップ無しだったか。
同じようなドア配置は、ロンドン地下鉄の小断面車輌にもあるね。 広沢シティで元長崎のキハ30を見てきた。
ステップや足かけ等々オリジナルに戻してもらいたいなぁ。。。
1990年のキハ30四国色
キハ35-900番台は904だけ相模線色に変えられてたな
ただJRマークがコルゲートが邪魔で貼り付け出来なかった
前面部の車番はプレートだった
とにかくトイレは汚くて臭かった記憶がある。
高校生の喫煙所にもなってたし。。。
>>351
3段6要素型の変速機ならではのストールトルク比を利用した運転方法だね。
BotWのリンクで再現するとこうなる。
DW14E液体変速機のトルクコンバータが3段6要素なので、この運転方法は使える。
一気に5ノッチに入れて加速させて、ゆっくり動き出したらノッチオフして、
勢いに任せながら動かす。その後、3ノッチや4ノッチで絞りながら力行する。
これは、勾配上で起動させる時や重いものをたくさん積んでいる時の起動方法。
速度が50km/h程度になったら、自動的にクラッチが切れて、直結1段に入る。
5ノッチに入れていると、50km/h付近でしゃくるようなエンジン音がするのは、
回転数を検知して自動的にクラッチを切るため。
3ノッチや4ノッチでの絞り力行では、それよりも低い速度で直結1段に変速する。
70km/h程度で直結2段に切り替わる。
直結状態で速度が大幅に落ちると、エンストを防ぐために自動的に変速段に落ちる。 詳しいし専門的だなぁ。。。
>>364さんは元ウテシか検修の方ですかね・・・? 水島の30もガタが来ているのか?
この連休中走らせてもらいたかった。
非冷だから夏場は走らせないし。
古いディーゼルカーだから、足回りはもうガタガタ。
キハE130系にバトンタッチする時代。
将来的には、非電化の幹線はハイブリッド気動車が主流で、
余った方の新型気動車は、過疎ローカル線を支える形になると…。
新津の鉄道資料館に行ったら「キハ35 507」の車体番号切り抜きと妻板の形式・自重・
換算・全建表記の鉄板が大事に展示されていた。
よくまぁこんなものも切り抜いて保存してくれたものだと嬉しかった。
1985年9月の川越線非電化最終日
>>367 エンジン換装、例えばキハ85のカミンズエンジン、無理か。
この形式、新型のエンジンに換装したものは無いんだよな。 長距離鈍行でキハ35に当たったら拷問だった?
広島の103系も車両と路線の特性がミスマッチで大不評だったし
だった?君は、まずキハ35の長距離があるかどうか考えてみればいいのに
自分は八高くらいしかないわ
関西本線奈良電化までは湊町発名古屋行きなんて平気であったからね。
>>374 どういう編成かが問題なんだが。気動車か客車か、気動車だとしてもキハ30を全区間併結していたのか?
奈良辺りで増解結していたってことは? >>372
特性というか、便所なし・半自動対応なしだったからな。
あまり古いことは知らないが、35系の半自動押しボタンは後付けだろうか。 当時の近鉄の宇治急は2200系の2ドア転クロが当たり前だったから、
湊町−亀山・名古屋といったロングランでのキハ35は明らかに不評だったのは言える。
>>377
当時は真冬の列車交換時でも扉全開、半自動扱いになるのは後天的改造だから。
でも天王寺・柏原間昼間帯のDC普通列車10分ヘッド運転は楽しかったね。 >>371
末期の東日本のキハ35系は全車エンジン換装されているはず。
DMH17Hが使用禁止になってるわけだから。
あと、関鉄でも半数以上がエンジン換装してパワーアップしている。
当然水島に行ったキハ30もエンジン換装済み。
まぁ、エンジン以外がヤバいのかもな。 >>382
>DMH17Hが使用禁止になってるわけだから
kwsk 1995の初冬だったか、久々に八高線乗ったらエンジン換装車でそれはもうやたら速かった。
1985年春先まで川越線の鈍足さを味わった者としては、あまりの疾走ぶりにおぃおぃ停まれるのかよ!とビビったものです。
パワフルな走りが楽しくてそれから1年あまりの間に何度も乗りに行ったな。