2018年10月10日 06時00分
ウィリアム・ライトさんが持ち帰った家入荒雄さん(左)とみられる写真
太平洋戦争中のフィリピンで旧日本軍の捕虜となり、福岡県桂川町の明治鉱業平山炭鉱で労役に従事した米国人の遺族が、炭鉱の監督者だったとみられる「家入荒雄」という男性の行方を捜している。当時、同町土師に住んでいた家入さんに親切な対応を受けたといい、家族に会って謝意を伝えたいという。12日に同町を訪れる予定だが、有力な手がかりはなく、日本の支援者が家入さんに関する情報提供を募っている。
米国人は、1985年に74歳で亡くなったウィリアム・ライトさん。息子のジェームズさんによると、米空軍に配属され、機体の整備士などとして働いた40年、フィリピンのルソン島に派遣されたという。
島のバターン半島は日本が42年に攻略し、ライトさんらは降伏。このとき米軍とフィリピン軍の約7万人が捕虜となり、収容所までの約100キロを歩かされた。「バターン死の行進」と言われ、劣悪な条件下での飢えや疲労などにより、数万人が死亡したとされる。
ライトさんは生き延び、44年7月に約200人の米国人捕虜とともにフィリピンを出港し、8月に北九州市の門司港に上陸、平山炭鉱に連行された。そこでは掘り出した石炭を運搬する車両などの溶接工を担当。ほかの炭鉱のように日常的な暴力はなく、「民間監督者のほとんどが捕虜を人間として扱った」(ジェームズさん)という中で、家入さんに感謝の念が湧いたという。
https://www.nishinippon.co.jp/sp/nnp/national/article/456312/
ウィリアム・ライトさんが持ち帰った家入荒雄さん(左)とみられる写真
太平洋戦争中のフィリピンで旧日本軍の捕虜となり、福岡県桂川町の明治鉱業平山炭鉱で労役に従事した米国人の遺族が、炭鉱の監督者だったとみられる「家入荒雄」という男性の行方を捜している。当時、同町土師に住んでいた家入さんに親切な対応を受けたといい、家族に会って謝意を伝えたいという。12日に同町を訪れる予定だが、有力な手がかりはなく、日本の支援者が家入さんに関する情報提供を募っている。
米国人は、1985年に74歳で亡くなったウィリアム・ライトさん。息子のジェームズさんによると、米空軍に配属され、機体の整備士などとして働いた40年、フィリピンのルソン島に派遣されたという。
島のバターン半島は日本が42年に攻略し、ライトさんらは降伏。このとき米軍とフィリピン軍の約7万人が捕虜となり、収容所までの約100キロを歩かされた。「バターン死の行進」と言われ、劣悪な条件下での飢えや疲労などにより、数万人が死亡したとされる。
ライトさんは生き延び、44年7月に約200人の米国人捕虜とともにフィリピンを出港し、8月に北九州市の門司港に上陸、平山炭鉱に連行された。そこでは掘り出した石炭を運搬する車両などの溶接工を担当。ほかの炭鉱のように日常的な暴力はなく、「民間監督者のほとんどが捕虜を人間として扱った」(ジェームズさん)という中で、家入さんに感謝の念が湧いたという。
https://www.nishinippon.co.jp/sp/nnp/national/article/456312/